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小川芋銭(おがわうせん)記念館・河童の碑(牛久市城中町)
小川芋銭(おがわうせん)は1868年に江戸赤坂溜池で牛久藩士小川賢勝の長男として生まれた。廃藩置県により旧藩地新治県河内郡城中村(現牛久市城中)に移住した。明治14年本多錦吉郎経営の画塾彰技堂に入塾し洋画を学び始め画業の出発点となった。
明治21年には改進党政客尾崎行雄の推挙で朝野新聞に客員として入社した。明治26年には帰郷し終日農業に従事する生活に入り、明治28には結婚した。明治29年営農の寸暇に描いた漫画を地方新聞「茨城日報」(後の茨城新聞)に投稿し、渡辺鼓堂の目に留まり鼓堂の推薦で同紙に掲載された。「芋銭」の雅号は明治24年「朝野新聞」に第1回帝国議会のスケッチと漫画を掲載した頃から用いたといわれている。「徒然草」にでてくる芋を好んだ和尚「盛親僧都」も悠々たる気持ちや風格が好きで自分の絵も、売れて芋を買えるようになればという気持ちから芋銭とつけたといわれる。俳人雅号の「牛里」は郷里牛久の名にちなんでつけられたものと思われる。
明治38年ごろから本格的な日本画の製作を目指した。大正4年には乞われて珊瑚会同人となり、その後横山大観の推挙を受け日本美術院同人となった。円熟期にはいった芋銭は農事は妻に任せて、旅から旅への生活を続けるようになった。この間数々の作品を創作したが、大正12年に描いた「水魅戯」は関東大震災直前に描かれた事から、河童の神通力が震災を予見したと話題になった。
昭和12年には旧居宅の前にアトリエが新築された。これが「雲魚亭」で芋銭は晩年をここで過ごし数々の傑作を生み出していったが、昭和13年には入浴中に倒れ一時回復に向かったが、同年12月ついに帰らぬ人となった。(芋銭記念館配布の資料から抜粋)
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 小川芋銭記念館(雲魚亭)
小川芋銭記念館(雲魚亭)芋銭最晩年の昭和12年9月19日、芋銭婦人と芋銭長男により新築された画室兼居室。
当時芋銭は長女の婚家弓削家に滞在していたが、同年末よりここに移り、「雲魚亭」と命名した。以後老齢に鞭打ち、傑作「小六月」や「涼気流」等を含む60余点に及ぶ古稀記念新作展の政策、また「河童百図」の準備などにあたった。
だが、翌昭和13年1月31日入浴中に脳溢血で倒れ、その後は伏臥静養の後小康を得たが同年12月16日夜半睡眠中に再び溢血、翌17日午前1時ついに帰らぬ人となった。
今回、小川芋銭生誕120年記念祭にあたり、芋銭3男故小川知可良の遺志により、小川芋銭記念館として当市に寄贈されたものである。(説明版より)
 
 写真                          画室
小川芋銭の写真小川芋銭の画室
 
 手紙                          愛用の筆
小川芋銭の手紙小川芋銭の筆
 
 かっぱ松
河童松その昔、村の若者(彦右衛門)が沼に住む河童に水の中に引き込まれ、死んでしまう事がたびたびありました。
そこで村で一番屈強な若者が河童を退治する事になったのです。ある日その若者は、とうとういたずら河童を見つけました。沼のほとりで昼寝をしているではありませんか。若者は河童を陸へ引きずり上げ、松ノ木にくくりつけて殺そうとしました。ところが、河童があまりに泣いて詫びるので、黄の優しい若者は、二度と悪事をしない事を約束させ、河童を放してあげました。
それ以来、沼で溺れる人はなくなりました。また、河童をくくりつけた松は「かっぱ松」と呼ばれるようになったという事です。(説明版より)
初代松は樹齢500年ほどであったが、先年枯死した。現在の松は芋銭生誕120年を記念して植栽されたもの。
 
 小川芋銭記念館から望む牛久沼
牛久沼
 
 河童の碑(小川芋銭碑)
河童の碑(小川芋銭碑)画聖小川芋銭は、明治元年牛久藩邸(現・東京赤坂溜池)で生まれ、同4年この地に移住。少年期上京し、桜田小で勉学の後、彰技堂において画を学んだ。同26年帰農以後は、郷土の伝説に登場する「河童」をはじめ、「水の精」や「山の精」など幻想的な世界を数多く描き、独自の画境を開いた。
一方、芋銭は画のほかに書や俳句にも通じ、絵を描く芭蕉とも称されており、昭和13年71歳で他界するまで各地を訪れ、不朽の名作を残している。(菩提寺得月院に眠る)
この碑は芋銭没後の昭和26年、小川家をはじめ、敬慕する人々によって建立されたもの。正面には芋銭晩年の作である「河童図」と「誰識古人画龍心」の文字が刻まれている。(説明版より)
 
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