高井城は、小貝川を北に望む半島状台地に築かれた、取手市内で最も大きい戦国時代後期の城跡である。城跡全体は約二百メートル四方の規模で、その内部は主郭とそれに付属する日たつの曲輪からなる中心部と、その外側に広がる外郭から成り立っている。標高は二十一メートル、小貝川に沿った低地からの比高は約十メートルである。
現在、城跡一帯は大部分が宅地となり、外郭遺構は部分しか残っていないが、城の中心部である主郭とそれの伴う曲輪は良好な状態で保存されている。
主郭は南北65メートル東西45メートルの正方形に近い形で、四方に土塁がめぐらされている。主郭南辺と西辺の土塁上に虎口が、南東端には櫓台が残る。主郭南辺と東辺の土塁は、主郭内で最も高く築かれて、その外側に堀が設けられている。主郭西辺には、半円形の張り出し部分と虎口、それに虎口外側には枡形状遺構がある。
主郭内は東側から西側に傾斜しており、土塁に沿って排水溝と思われる遺構が確認されている。主郭と第2郭、城外への連絡方法は、枡形になっている主郭西側虎口を出て、上段の通路状遺構を北に進むと下段の通路状遺構へ下る通路にあたる。この通路を更に北に進むと枡形状遺構を経て第2郭にいたり、この通路を折り返す形で南に進むと、下段の通路状遺構から城の搦手である城跡西側の谷津にいたる構造になっている。
第2郭は、土塁を挟んで主郭の北側に位置している。第2郭の西辺には、曲輪の下方に小規模な堀跡と思われる腰曲輪状の平坦面が築かれており、第2郭西側の守りを固めている。
第3郭は堀を隔てて主郭の南側に位置している。第3郭は曲輪の東部分が消滅しているが、西辺と南辺には土塁の痕跡とその外側に堀の痕跡、南辺の土塁痕跡の東端には櫓台状の遺構がある。また、第3郭北西斜面には、平坦面が築かれ、井戸跡がある。
高井城がいつ頃築かれたかは明らかでないが、高井の地名は建武3年(1336年)11月22日付相馬親胤宛「斯波家長奉書」に大鹿村(現在の取手市白山地区)とともにみえ、この時点で相馬市の知行地であった。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原城攻めの際、後北条氏とともに下総系相馬氏が滅亡したため、高井城は廃城となり、その役割を終えた。(説明板より)
高井城は取手市内で唯一残っている戦国時代の城址跡で一帯は現在では公園となっている。 |