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女化稲荷神社(竜ヶ崎市馴馬町女化)
俚説にいう。建久の頃、源頼朝公富士の裾野に御狩ありし時、夢の中に霊狐現れ、「吾久しくこの野に棲むなるが、御狩により一命の程も覚束なし、希わくは助命あれかし」と言い終りて失せぬ。翌日、仮谷の公前に白狐来り。いとも哀れに頸を垂れ居れば、公曰く「是より東にあたり常陸の国高見が原とて、広き野に稲荷の祠ありと聞く、これに移り棲むべし」と。
時は永正の六年常陸の国根本村に忠五郎とて律儀なる者あり。常々農を励むいとまに筵を織りて商うを事とせり。或る日土浦にて筵を商い帰るさ、黄昏に高見が原を通りしに折りしも一人の猟師寝伏したる白狐を射たんとする態を見て、一時に哀れと思い一咳しければ、狐は驚き覚めて草むらに逃れ去りぬ。猟師いたく憤り咎めしかば、忠五郎は筵の値をば差し出し、ひたすらに謝して初更の頃我が家に立ち戻りぬ。
柴の折戸を開かんとするに側に老若男女二人佇み居たり。「何人ぞ」と問い尋ぬるに、「われらは奥州の者にて鎌倉に参る旅路。今し、この家に泊まりを請いしも『主人留守なり』と老母の断りなるに所置なく茲にあり」と答ふ。忠五郎生来慈悲の心深く、この様を見ていとど哀れみ一夜の宿を許しき。かくて明くれば女のみ臥し居るにぞ、いぶかしく思い聞きただしぬ。女涙ながらに答ふらく、「吾は奥州信夫の郷の者にて幼年の頃に父母を失い譜代の僕の養育を受け今年21歳なり。家貧しく一族を頼まんため鎌倉に赴く途次、この始末なり」と。
その後彼の老僕いかに尋ぬれども、ついに行方知れずになりぬ。女は日毎まめまめしく耕作など手伝いをなして日を送るほどに、いつか早三月程も経ければ里人等これを見知り、心貌ともにいとうるわしとて、老母にも勧めて忠五郎が妻となしける。貞実にて業にいそしみ大いに産を興し、家運とみに揚がり、八年の間に一女二男をあげぬ。
これ時永十四丁丑年仲秋の一日、末の子の添乳のおり倶に睡眠を催しが、秋風身にしむるに覚め、垣間に乱れ咲く白菊を茫然と眺め居たるに、遊び帰りし長子この姿を見て狐なるに驚き、泣き叫べばその正体を見られしを恥じて一首の歌を書き残し去り失せたり。
  「みどり子の母はと問わばをなばけの原に泣くふすと答えよ」
忠五郎はいたく悲しみ嘆き、三児を擁してその後を追えども、遂に再び見るを得ざりきなり。忠五郎の徳に感じて霊狐の仮に女性と化し、恩に報いたるこの神秘を語り伝えてより、人呼んで女化原といい、女化稲荷と称するに至れり。(女化稲荷縁起説明版より)

旧暦最初の午の日には、女化稲荷神社で初午が催されます。神社の砂を持ち帰り、畑に撒くと豊作まちがいなしと信じられています。
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 鳥居
女化稲荷神社の鳥居本社の参道は非常に長く500m前後はあろうと思われる。本写真はその参道の中程から撮影したものであるが、200mは距離があると思われる。
鳥居の数も木製や石製のものを含め、また、新しいものから古いもの迄10個以上はあった。
 
 社殿
女化稲荷神社の社殿女化稲荷神社の社殿
 
 絵馬
女化稲荷神社の絵馬女化稲荷神社の絵馬
 
 絵馬
女化稲荷神社の絵馬本殿の壁には稲荷にちなむ絵馬が数枚かかっていた。
 
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