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岡堰(取手市岡:旧北相馬郡藤代町岡)
岡堰は寛永7年(1630年)、関東郡代伊奈半十郎忠治によって造られたもので、上流の福岡堰、下流の豊田堰と共に、小貝川の三大堰の一つとなっています。
岡堰は昔から桜の名所として親しまれてきましたが、今から10年ほど前に古い堰が壊され新しい堰が建設された際に多くの桜が切り倒されてしまい、今ではその面影は殆どありません。私は趣のある古い岡堰が好きでしたが時代の流れには逆らえません。しかし、古い堰の一部は小貝川の中州に記念に保存されており、その往事の姿を偲ぶことができます。
この堰は江戸時代の寛政7年(1795年)に近くに住んでいた間宮林蔵が、堰き止め工事に知恵を貸したことで役人に認められ、江戸に出るきっかけとなったことでも有名です。
「茨城百景」のひとつに選定されている。
 
本堰は寛永七年徳川三代将軍将軍家光が下総国相馬二万石の開拓をするため、時の郡代伊奈十郎忠治に命じて洗堰三基を丸太にて築造したのが始まりである。その後数度の災害を被り、その都度復旧改良を重ね、関東三大堰の一つと称せられている。本改築は昭和八年小貝川改修工事の起工に伴い計画され可動堰は工費ニ九一万円、昭和十二年二月着工、同二十一年二月竣工。引上扉式一一連、延長六三米、純径間四二米。洗堰は工費六千有余万円。昭和二八年十一月着工、同三十五年三月竣工。固定堰延長一〇〇米、洗堰部九二米である。(岡堰改築記念碑より)
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 岡堰
岡堰岡堰
 
 保存されている旧岡堰の一部
保存された旧岡堰の一部保存された旧岡堰の一部
 
 保存されている旧岡堰の一部         旧岡堰の洗堰煉瓦
保存された旧岡堰の一部旧岡堰の洗堰煉瓦
 
 岡堰中州に立つ間宮林蔵像
岡堰中州に立つ間宮林蔵像間宮林蔵は1780年(安永9年)農家に生まれ16才のときに近所の小貝川における岡堰の工事に際して普請の幕府の役人に堰き止め工事をたやすくするアイデアを提供し、その才能を認められて江戸に出た。のちに蝦夷、千島に渡り開発・測量に従事した。
1808年(文化5年)、29歳のときに幕命をうけ、2回にわたり樺太を探検し1809年(文化6年)に間宮海峡を発見しました。晩年の1829年(文政12年)から9年間は海防係として国事に励み「海濱舟行図」(瀬戸内・九州の海岸図)を残している。1844年(天保15年)2月16日江戸本所外出町の自宅で病死した。(享年65歳)
親交のあった人としては江川太郎左衛門、川路聖謨(としあきら)、戸川播磨守などがいる。
 
 岡堰の風景
岡堰の風景岡堰の風景
 
 岡堰から見た筑波山
岡から見た筑波山堰
 
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