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守谷城址[将門城址](守谷市本町)
守谷城は守谷市(城内地区)と平台山と称する島状の台地とを併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に初めて城館が構築されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に増築・移転した。
平台山に最初に築造された城の事を守谷本城とも読んでいる。この守谷本城は鎌倉時代になって平将門のおじに当たる平良文の子孫、相馬師常によって築城されたもので質素な鎌倉様式を残した名城である。師常は源頼朝の旗揚げに最先かけて参陣し、頼朝の重臣として幕政に参画し、その功によって相馬郡の他に、結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城はそれらの領地を統轄する本城としての役割を演じたものである。
本城の面積約21,254平方メートルで、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀などによって区画されている。なお、その三郭には妙見寺も建てられ、相馬野馬追いの行事はその社前で実施されたといわれている。
なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、その後は守谷城の出城として使用されていたようである。
本城は先刻時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内六郭の発掘調査によって判明した。この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般にわたってその機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎)26棟が発掘され、それに付属して井戸・掘り・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。
なお、小貝川より入る一大水系は満々たる水をたたえて城域を囲み、更にはその水域のきわめて広大なること、築城技術の入念な事、それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。永禄9年(1566年)城主相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城であった。
この城は北条氏の勢力化にあったので、小田原落城後、豊臣秀吉軍の進行により廃城となった。(説明版より)
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 守谷城址[将門城址]               守谷城址[将門城址]の領域図
守谷城址守谷城[将門城址]の見取り図
 
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