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本田作左衛門重次墳墓(取手市台宿)
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本田作左衛門重次墳墓 「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」の手紙で有名な徳川の旧臣本田作左衛門はあだ名を鬼作左といい、三河の国大平村に生まれ9歳にして家康の祖父松平清康に仕え、のち家康に仕えて取手に移り当地にて3000石を領有していた。文禄5年7月16日、68歳で病没し、遺骸を菩提寺である光明山本願寺の寺領で、俗にお墓山(桜ヶ丘)と称される丘地に埋葬された。
 お仙というのは重次の長男仙千代のことで、後に越前藩丸岡4万3000石の城主本多飛騨守成重のことである。
(説明板より)
家康の重臣であったが、豊臣秀吉の勘気を蒙ったことからこの地に引きこもった。
当地は昭和9年に茨城県史跡に指定されている。
 
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