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一言主神社(水海道市大塚戸)
一言主(ひとことぬし)神社の社伝によると、大同4年(809年)現在の社殿の西方に霊光を放つ筍が生え、数夜にして三岐(みつまた)の竹に成長した。不思議さに村人が行者に祈祷させたところ、一言主の託宣があり、この地に社殿を造営し、大和国(奈良県)葛城の一言主神を迎え鎮斎したのが創祀と伝えられている。一言主神社が「三竹山」と称される所以である。
一言主神は、出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の長子で別名事代主神(ことしろぬしのかみ)とされ、言行一致の神、一言の願い事でもおろそかにせず、願いをかなえる神として篤い信仰を受け、県外からも多くの崇敬者が訪れる。
本殿は社伝によると、長禄3年(1459年)に下総国守守谷城主相馬弾正胤広候(平将門の後裔)の寄進によって再建されたとされている。現存する社殿は元禄13年(1700年)正月遷宮のときに大修理が行なわれた。一間社流造え、屋根は桧皮葺風の銅板葺。身舎(もや)外壁の左右に「鳳凰と牡丹」、後側に「鶴と牡丹」の彫物が釘止めされ、脇障子には「三岐の竹」の彫物がはめられている。本殿は、昭和59年(1948年)市指定文化財に指定された。
9月13日の一言主神社秋季例大祭の奉納行事である「葛城流からくり綱火」(指定名「大塚戸の綱火」)は操り人形と仕掛花火とを結合させたもので、空中に張り巡らした綱により花火のついた人形(木偶)を操作し、芝居を演じる民俗芸能である。万治2年(1659年)大塚戸村向山に三峰神社が開基されるに当たり、村民が花火を奉納したのが始まりとされている。江戸時代より一言主神社の奉納行事として永く伝承されてきたが、終戦直後の昭和22年(1947年)、諸般の事情により中断。しかし、昭和40年(1969年)に大塚戸芸能保存会によって復活上演されるようになった。昭和55年(1980年)に市指定無形民俗文化財となった。(説明板より)
 
三竹の由来
今より千百五十余年前、今の社殿のある辺に奇しき光現れて、雪の中に忽然と筍が生じ、三岐の竹となりました。
冬の時期余りに不思議に怪しいので、村人がお祓いをし、湯立の行事をして卜いますと、「吾は大和国葛城山にいる一言主大神なり。今東国の万民の災禍を救わんが為に来れるなり。即ちこの三岐の竹をもって長く契りとせよ。」云々と託宣せられました。依って村人これに驚き、之処人跡を禁じ、社殿を造りお祀したのです。
その後も時折三岐の竹が生えるので、三竹山と呼ぶようになったのであります。(説明板より)
 
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 鳥居
水海道の一言主神社大鳥居水海道の一言主神社鳥居
 
 社殿
水海道の一言主神社社殿水海道の一言主神社社殿
 
 社殿
水海道の一言主神社社殿水海道の一言主神社社殿
 
 身舎(もや)
水海道の一言主神社身舎(もや)水海道の一言主神社身舎(もや)
 
 手水場
水海道の一言主神社漱ぎ場
 
 復元された石棺
水海道の一言主神社復元石棺此の棺に納めてある出土品は神社の西北1500メートルにあるこの地方最大の大塚戸古墳群のうちの一つであり、珍しい小口積石棺である。
今より千数百年前の古墳後期のもので、縦30メートル、横22メートルの前方後円式。昭和36年11月3日、西宮一男教諭指導のもとに水海道中学校郷土クラブ員により発掘し、此処に復元したものである。
思えば南方民族が当時既に利根川を遡ってこの地に安住し、文化をもたらし神社の創立(平安時代、平城天皇、大同4年(西暦809年))となったことが伺われる。(説明板より)
 
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