天長3年10月、寺宝毘沙門天王像の海中湧出を基源として建立された寺院であるが、一度文久2年に消失し、さらに明治29年に再び火災に遭い、その後永く仮屋の状態におかれて老朽も甚だしく、さきに開設した霊国経営とも相まって、漸く檀徒の間に本堂建築の機運も起こりつつあった。時恰も弘法大師入定1150年御遠忌に当たるを以って、これが記念事業として山門修復と併せ施工することとし、建築委員会を組織して広く浄財を求め、昭和61年3月28日落慶を迎うるにいたったものである。(本堂落慶記念碑より)
真言宗豊山派のお寺で、相馬四国八十八箇所第六十三番札所及び関東八十八ヶ所の第四十二番札所であり、取手七福神のひとつでもあって毘沙門天を祭る。また、人の顔が浮かび上がった木の板(人面板)があるということでも有名です。
今回行ったときには本堂内に見当たりませんでしたが、10年以上も前に本堂に入ったときには中に白っぽい板が置いてあり、良く見ると、人の顔と思われる模様が浮かび上がっていました。顔は前住職(善勝さん)の顔といわれ、テレビでも何度か紹介されたことがあります。これについては以下のような話が伝えられています。
『前住職とその妻まちさんはカヤの木の実をとって、油と薬を作り、村の人々にも分け、大変喜ばれていた。前住職が亡くなった後、この木は建築材として利用するために伐採され、建築商に売られた。その後、ある大工が木材に妙なものが映っているので見てほしいと現住職のもとへ持って来た。その板を見て、現住職は言葉を失った。板にはなんと、父である前住職さんの顔が浮かび上がっていたのである。しかも、この板が持ち込まれて2〜3年してからは、木の裏に母まちさんの顔までもが出てきたのである。』 |